2011年9月27日火曜日

Caleidoscópio - Rioから見たSP

帰国当初から、近いうちにブラジルに戻りたいと思っている。

特に最近ブラジル関連のイベントに顔を出すに付け、その思いは強まっている。

どう実現するかが最大の問題であるが、ここではとりあえず行きたい理由を記す。

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最もひきつけられるのは、Rio de JaneiroのCarnavalに代表されるような光り輝くブラジルである。

これは、Carnavalの1ヶ月前に帰国したことによる、宿題としての側面が強い。必修科目。

最近ラテンビート映画祭で見た「Rio」というフルCGアニメ映画の影響も少なくない。

話自体は珍しくないものだったが、主な舞台となるRio de Janeiroという街が細部にわたって描きこまれていたこと、主役の鳥たちがブラジルらしいヴィヴィッドな色鮮やかさであること、話の展開がまさにRioのCarnavalに沿っていること、これら3点に感銘を受けた。

この映画の監督はブラジル出身で、長年この企画をあたためてきたというから相当力が入っていたのだろう。

一般的には、この映画を大衆娯楽アニメ映画と捉える向きが強いと思われるが、実際の街中に存在する雰囲気を詳細に表現しようとした点においてこそ評価されるべきだと感じた。

というのも、劇中で描写されているRioの町並みを通じて、僕のSão Pauloでの日常が想起されたからである。

その”Rioの町並み”は、歩道に敷き詰められているタイルだった。(写真の上から3段目右側。)

São Pauloでは、州の形をモチーフにしたイカした模様で統一されたタイルが敷き詰められている。

一方、劇中で主人公の鳥が飼い主と車に乗ってRioの街中で信号待ちをしているシーンで出てくるのが、下のイメージにもある模様なのである。そもそも僕はRio de Janeiroに行ったことがなく、Rio州の紋章などは知らないが、少なくともこの模様が"Rio"という言葉が意味する「川」の流れをモチーフとしたのは一目瞭然だ。

正直、São Pauloでの生活では、歩道の模様をそんなスタイリッシュにする前に、道路の補修とか信号機の耐久性向上とか他にやることがあるだろうと思うことが多かった。しかし、そうした機能物に作り手のこだわりというか美意識のようなものを盛り込んでくる、そしてそれを許す、あの雰囲気に対して、懐かしさを覚えずにはいられない。

サウダージとは、こういう感情のことを言うのだと思う。

この2つの州・都市の歩道の模様が、自分の中で瞬間的に繋がり、この映画を名画にした。

(画像引用先: Wikipedia)

2011年9月19日月曜日

地理情報の把握

しばらくはブラジルに行くことはないと思われるので、このブログは日本におけるブラジルの話題であったり、当時のことを思い出しての話題をつづることになる。今回は後者。

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行ったことのない場所へ行くとき、地図が重宝する。

日常のルーティンを抜け出て新しい街に繰り出す場合と、その領域の背景にある地理情報を知りたい場合。

このように地図利用の目的は大きく2つに分けられると思われるが、前者においてはGoogle Mapsなど技術革新によって、ネットに接続できれば好きなときに好きな場所で地図を確認することが出来るようになった。

問題は後者の、その領域における地理情報の把握における地図の役割である。

それは言うまでもなく大きいわけであるが、ブラジルに行く前の僕は、この点を履き違えて大きな失敗を犯した。

つまり、使っていた地図帳を持っていくことを怠ったのだ。何も考えてなかっただけとも言える。

いま僕はこの失態を悔いている。

なぜなら、ブラジルという千差万別の地域文化を持つ国において、地理条件の把握こそが、その実情把握のための要になるからだ。

実際、上記の地図の目的二分論における一つ目の理由からわかるとおり、単に生活していく分には、たとえそれが旅行であっても、最低限の需要は満たされる。

しかし、その地域がどのような地理条件にあって、したがってどのような気候や文化があるのか、そうしたことを把握し、自分の五感を通じて得られる刺激と結びつけるためには、どうしてもしっかりした地図帳が必要なのだ。

振り返ってみると、サンパウロの本屋さんで地図帳を探すなんてことはなかったし、結局当時は地理情報の把握を全く意識していなかったということなのだろうが、今では勿体ないことをしたとしか思えない。

帰国して自分の本棚で受験時代からお世話になっているA4版の『基本地図帳』(2006, 二宮書店)を見つけ、南米のページを開いたときの落胆といったら筆舌に尽くしがたいものがあった。

ブラジル近代史やブラジル日系移民史について少しばかり本を読んでいたので、なおさら勿体無かった。

統治にしろ商売にしろ、時間(歴史)と空間(地理)の把握が第一歩であると、誰かが言っていた。

反省!

2011年6月25日土曜日

駒場にて

先週の土曜日は駒場で自分のインターンシップについてプレゼンをする機会をもらった。

聴衆は、インターンを終えた人たちが数十人。

SFCの国領先生(AIESECの大先輩)の基調講演ののち、自分のプレゼン、そして先生司会による質疑応答という流れだった。

その後、インターンから帰ってきたばかりの2・3年生がいるテーブルごとに彼らの経験の共有・ディスカッション。

パワポの内容は、前回の大手町でのものに比べて大幅に変更。

ご来場いただいた諮問の方に前回との違いを指摘され、してやったりだった(これがいわゆる「ドヤ顔」)。

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振り返ること自体の意味については以前書いたので、今回のイベントの特質について。

前半の僕が前で話している時間までは、AIESECとしてはよくあるイベント内容だった。

特筆すべきは後半だ。

インターンシップから帰ってきたばかりの人がインターンシップ経験をもとに歩み始めてる人たちと交わすやりとり。

後者が何に面白みを感じるのか、彼らの情熱を引き出すことが出来れば、もっと面白いことが出来るはずだ。

要反省!

2011年5月28日土曜日

海外で働くということ

日本国内だけでなく海外で働かなければならない時代になっていると思う。

少なくとも海外から目を背けて仕事は出来ないご時世だという意見に異論はないはずだ。

加えて、僕は、どうせ海外から目を背けられないのであれば、そこにいる人々が何を考えているのか、どんな感性を持っているのか、知りたいと思う性質の人間である。

社会人になる前に自分で機会を捉える必要があると思いつつ、中高6年間は日本国内に留まった。

学生である間に、海外で働く経験を得たい。そう思って、この海外インターンシップという機会に飛び込んだ。

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今振り返ってみると、当初の目的が達成された面もある一方で、達成されなかった面もある。

当初の目的が達成されたといえるのは、現地での「生活」を通じて見えてきた彼らの一般的な価値観やら風土といったものである。

或いは、その風土へ適応するプロセスを自分の中で一通り実験してみた結果としての自信と言い換えられるかもしれない。

8ヶ月もの時間を投資して、多少は言葉を勉強し、さらには現地の人と机を並べていたのだから、こうしたことを達成事項としてあげるのは、当たり前といえば当たり前だといえるかもしれない。

達成できなかったのは、上記の理解を前提として成り立つ「協同」であると言える。

僕の中で「海外で働く」という時、その裏にこの「協同」という概念がぼんやりとくっついていたし、それはインターン先を決めるときも意識していた。

さしあたり「協同」とは、互いの価値観の相違を乗り越えて一つの目標に向かって歩みを共にすること、とでも言える。

文化の差異なんて相対的なものであって、別固体と比較する限り必ず存在するはずだが、国が違えばその差異の程度も想像だにしないものになるだろうという目論見である。

今回のインターンシップにおいて、残念ながら意図される「協同」を実現することは出来なかった。

言い換えれば、いわゆる日本企業的なロジックの枠組みから一歩踏み出して、彼女らと仕事をすることはなかったということだ。

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原因は複数あろうが、主には、1.(総論)インターン先が日系企業であったこと、2.(各論)設立後2年目で「現地化」の優先事項が他の活動にあったこと、(各論)自分がそこに甘んじたことにあると思う。

一応弁解しておくと、「協同」の文脈でそこにある状況に甘んじてしまっただけであって、仕事一般としては相応のアウトプットを出したつもりだし、そうした評価をいただいている。(この反省は、今改めて振り返ればこそのものであることをご留意されたい。)

1.インターン先が日系企業であったこと

総論としては、この一言に尽きる。

しかし、ここで書いておきたいのは、インターンシップを始める段階では全くその事実を気にしていなかったということだ。

というのも、職場における役割として、社長さんのアイディアを現場に落とし込み、ブラジル人たちと形にしていくもの、と聞いており、すなわち彼らブラジル人と共に成果を出す必要があると解釈していたからである。

しかし、現実は違った。少なくとも、上記解釈のようなことは求められていなかった。

これは、求人票に書いてある情報は、非常に限られたものでしかないということの端的な例と言えよう。

その意味で、若干余談だが、報酬に見合った成果を出すという点で、その組織の構成員の多数と同等の視点を得られるような「インターンシップ」という機会に身を投じることは、非常に意味があるし、あったと思う。

2.設立後2年目で「現地化」の優先事項が他の活動にあったこと

設立後2年目というのは、我がインターン先固有の事情であって、原則非常に恵まれた機会だったと感じている。

問題は、「ものづくり」を標榜する日系メーカーの、進出したばかりの海外拠点が、「協同」の追求に適していたかどうかということだ。結論は否。

二輪メーカーの生産・販売拠点の新規展開期ということで、当然現地化せざるを得ない部分もあるはずだ。

しかし、割り振られた業務領域とその周辺領域において「現地化」というキーワードを意識することは一度もなかった。

例えば、次期モデル開発のための市場調査(上記「周辺領域」に該当)は日本からの調査団が一貫して主導権を握っており、商品企画はあくまでも日本が担うという前提があった。


したがって、少なくとも現地化の推進が我が担当領域には求められておらず、現場における「協同」は実現の機運に欠けていたといえる。


3.自分に甘えてしまったこと

これも結局見方の問題。

当初は「ブラジル×裁量ある仕事」くらいにしか考えておらず、「協同」ということについて、そこまで言語化・意識化できていなかった。

実際、あちらで「協同」していたと言えなくもないないが、その相手はブラジル人ではなく、日本人の社長さんだった。

一方、こうして振り返ることで言語化できるようになった面があり、自分としては当初言語化できなかったことは致し方ないものと考えている。考えるより感じろ、だ。

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次の、或いは近い将来の舞台で、リベンジしてやろうってなもんだ。

2011年5月18日水曜日

大手町にて

去る日曜日、大手町のサンケイプラザにて(特活)アイセック・ジャパン主催のイベントで自分の経験について発表してきた。

(この動画、同じ代でAIESECやってたやつの力作です!)

既に一定の選考プロセスを通過した上での、ファイナリストとしてのプレゼンテーションだった。

Ustreamで探せば当日の様子が見れるらしいが、怖いのでまだ探してすらいない(笑

残念ながら大賞はもらえなかったものの、至って清清しい心地がしている。

話し方を見て「成長したね」と声をかけてもらったり、「惜しかったね」と声をかけてもらったり、聴衆の数だけ見方があるというのも実感した。

ちなみに今回のイベントへの当日来場者は200人超。

5m向こうはぼやけて見える僕にとって、ちょうどいい会場の広さだったかもしれない。

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自分の経験を人前で共有することは、一義的に自分の経験に対する視点を取り込む機会と捉えることが出来る。

特に今回は、普段AIESECに協力してくださっている(≒AIESECへの理解が深い)方々を招聘してのイベントだったため、出させてもらっただけでも感謝しなければならない。

個人的には、8ヶ月ものインターンシップを如何にしてまとめるべきかという点で中々しっくりくるものがなかったので、今回のイベントを通じて一歩進めた気がしている。

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プレゼンが終わった後の待ち時間、青年海外協力隊OBの方とお話しする機会があった。

「上司とのコミュニケーションが課題だったと言っていたけれど、結局あちらはこっちが考える『上司』をやってくれたの?」という質問。協力隊の方々にとっても悩みの種であるらしい。

答えは「No」である。

新しい切り口、深めるポイントを提示してもらったように思う。



多謝!

2011年4月5日火曜日

旧友訪問:阿佐ヶ谷

今日は教科書をもらいに阿佐ヶ谷に行った。

数年前のケニアでのインターンシップに筆者が立ち会った、その人である。

試しに丸の内線に乗りっぱなしで南阿佐ヶ谷まで行ったが、結局JRと定期券の組み合わせのほうが安いということが判明し、帰りは阿佐ヶ谷で電車に乗った。

阿佐ヶ谷のアーケード商店街にあるカフェでお互いに近況報告。

何の利害もなく、だからこそ腹を割って話せる中であり、(勝手に)同志のように感じている。

諸般の事情により未だ学生をしている彼女は、どちらかというとお金に無頓着な自分は稼ぐことよりもやりたいことをやりたいと思うようになった、と言っていた。

外務省の専門職員を目指しているそうだ。

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明石の白木屋を去る間際にかけられた一言が思い出された:”君には国のために働いてほしい”。

その言葉をかけてくださった方との対比で、自分は未だ金に対する執着が強くない。

しかし「自分の金でやっている」という実感こそが、権力としてのお金を持つものに備えられるべきと考えると、現段階で執着が強くないからといって見切りをつけるべきではなく、どんな道に進もうとも責任としての金への執着は身に付ける必要があるだろう。

とはいえ、彼女が提示してくれた切り口には、非常に共感できる部分があったのも確かである。

いずれにせよ「では、どの道に行くのか」という問いが再び浮かび上がってくるわけだが、結論を出すには未だ時間がかかりそうだ。


追記:丸の内線には「新宿」「中野」と名の付く駅がそれぞれ4つ、加えて「三丁目」駅が3つある、ということに気がついた。なお「本郷」だけは旧三丁目の名残とのこと。

2011年4月2日土曜日

震災の影響

サンパウロから来た日系ブラジル人と会う予定がなくなってしまった。

去る3月11日に起きた地震が原因だ。

4月から町田にある大学に語学研修プログラムに参加する予定で、それまでは茨城の親戚の家に泊まって学費稼ぎのアルバイトをしていたらしい。

Facebookで流れていた彼女の投稿を見ると、水が無いだとか電気がないだとか、復旧しただとか、もろに被災したことが伝わってきた。

彼女とはAIESECサンパウロ大学委員会を通じて知り合ったわけだが、向こうで直接あったことは無かったので地味に楽しみにしていたのだった。

東京経由でブラジルに帰るわけで、実は会うチャンスもあったのだが、コミュニケーションミスで流れてしまった。

うむ、残念。

ここで書いている以上のことがあったわけではないのだが、忘れぬために記す。

2011年3月29日火曜日

働く上で大切にしたいこと

いわゆる「就活」をしている。

その中で割と直球勝負の質問に出会ったので、その回答をここに記しておく。なぜなら「働く」ことに対する認識は、あのブラジルでの8ヶ月の経験を置いては語れないからだ。

したがって、この文章は8ヶ月の経験の結果ということが出来よう。

一方で「働く上で大切にしたいこと」なんて、変わりうるものだし、言語化されているものがどれだけ本当のことを示しているかには疑問の余地がある。

ひょっとしたら「あの時は若かった」と思うのかもしれない。

しかし、これが「いま」である。

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0.これから働く上で大切にしたいことを2つ挙げ、それぞれの理由を書きなさい。

1-1.これから働く上で大切にしたいこと

自分を高められる環境に身をおいて仕事をすること。

1-2.上記の理由

ある場所・状態に留まっているだけでは人間だめになってしまうと思うからだ。ここでいう「環境」とは、一緒に働くことで知的刺激を受けられる人がいる場所であり、また知的な営為(たとえば何かを習得・創造するための試行錯誤)に対して一定の許容を示してくれる場を想定している。もっと言えば、個人にかかわる意思決定を最大限尊重してくれる環境とも言える。もちろん腰をすえて取り組んだり、組織として動いたりしないと達成できないことがあるのは確かだ。しかし、それにしてもその取り組みを通じて自分に何の変化もないということであったら、それは単に「やらなければならない」という義務感や見栄で動いているだけで不健康であると考える。「働く」ということは少なからず人生の時間を仕事に費やすということであるが、どうせ働くなら健康に、わくわくしながら働きたい。

2-1.これから働く上で大切にしたいこと

何らかの形で人類に貢献すること

2-2.上記の理由

これについては特に確固たる理由があるわけではなく、漠然と、そうしなければならない、そうすることが自分に期待されていることであり本分である、と思ってきたからだとしか言えない。自分にとってどんな形で貢献することが最適なのかは未だわからない。しかし、今までお世話になってきた人たちからの期待、そうした人へ恩返しをしたいという気持ち、将来的に期待される友人の活躍、それに負けてられないという気持ち、これらを総合すると上記に至る。
ここで、何を為すのかが問題になるが、現状、答えを出すには自分は知らなさ過ぎると考えているため、現段階で身近にある切り口で歩き始めてみて、その中で何かが見えてくるのを待つしかないと考えている。

2011年3月22日火曜日

居酒屋にて

西明石駅の脇の居酒屋で社長さんの音頭で人が集まり、飲んだ。

創業者の末裔さんあり、スペイン支店の支店長さんありの、今までにない顔ぶれで、話を聞いているだけでも楽しかった。

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ひとまず就職活動に臨んでいる。

現段階においては自分がサンパウロで過ごした8ヶ月はまさにこのためにあったのではないかというくらい、インターンシップでの経験を話すことにしている。最近の出来事なので話しやすい。

就職活動に臨んでいるのも、8ヶ月を通じて「働く」ということのイメージが以前よりかなり明確につかめた気がしているからだ。

とはいえ、「ご縁」か「サンパウロでやっていた仕事の延長線上」、それら2つ以外の軸は持ち合わせていない。



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ところが、である。

「君には国のために働いてほしい」というお言葉をいただいた。

北千里の友人の家に終電間際で着くために、急いで居酒屋を出ようとした際の一言だった。


明石での引き継ぎ

17日から20日にかけて、往復共に夜行バスで1泊4日の関西訪問に出た。

主目的はインターン先企業の明石工場を訪ねて、お世話になった方々に挨拶をすることである。インターン先の社長さんの日本出張のタイミングにかぶせた。

(サンパウロに出張でいらした方々と次期インターン生と共に。)

明石で何をしたかを記すと以下のとおり。

12時:工場到着
12時過ぎ~13時過ぎ:回転寿司でブラジルの社長さんと営業のブラジル担当の方々と昼食
14時半~15時:工場付設の歴代モデルの展示場見学
15時半~16時過ぎ:サンパウロに出張でいらっしゃった方々へのご挨拶
16時半~18時:情報処理に関する引継ぎ
18時過ぎ:退社
19時半~22時過ぎ:居酒屋で飲み会

このうち、次期インターン生への引継ぎとして、工場見学と社長さんとの面会という内容があったが、出張でいらした方々への挨拶は、インターン先企業がどんな雰囲気なのかというのを伝えるのにいい機会であったものと思われる。

震災の影響で部品供給が止まり、工場見学が出来なかったのは残念だったが、彼らにとって、マナウスへ連れて行ってもらえることが決まったことが、不幸中の幸いだったはずである。

退社までの時間でそれ以外の部分では、引継ぎと称してエクセルを用いた情報処理トレーニングの続きをやってもらっていた。

基本的には、アウトプット(例の月次報告書)の基となるローデータと過去のアウトプットを渡して「アウトプットしてください」といっているだけなので、「指示を出して、あとはどれくらい出来るかを見る」厳しめの訓練である。

逆の視点で言うと、終わりの見えない試行錯誤が必要であり、かつ、方法論については極力ネット上で探せと言われているという過酷な状況である。

しかし、今回の会議室における時間を通じて次期インターン生2人は互いに情報交換するなどして進歩しているように見えたし、この訓練を通じて方法論をより深く体得できるはずなのでがんばってほしい。

2011年3月13日日曜日

Um amigo brasileiro em Tóquio

母からメールがあり、地元の集まりの飲み会にブラジル人留学生が来ているとのこと。

とりあえず行ってみた。

聞いたところ、サンパウロ州はCampinasにある州立大学のUniCampで博士課程に在籍している学生さんであるとのこと。日系移民のうちの初期の流れについて研究しており、歴史家としての道に進みたいという。

駒場にある日本学生支援機構の寮に住んでいるために、同じく駒場の剣道場に通っているとのこと。

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久しぶりのブラジル人との会話では、ポルトガル語がなかなか出てこなかった(もともと出てこないが)ことに若干残念な気持ちを抱きつつも、お互いに共通の話題がたくさんあり、思い出話に花が咲いた。

彼は、もうこの3月末で帰国してしまうのだが、こうした機会は大事にしていきたいと思った。

2011年3月9日水曜日

訪友:あきる野へ

去る土曜日、サンパウロで会った友人が写真展を開いているというのを聞きつけて、あきる野市小川まで行ってきた。

我が家からだと京王線~JR南武線~青梅線~五日市線という経路で東秋留(ひがしあきる)駅まで。

住民にとっては車だけが移動手段と言っても過言ではないだろう場所であり、駅の脇に地図があることを当てにしていったらひどい目に遭った。

(東秋留駅からカフェが面している睦橋通りに出るために通った道。)

写真展をやっているカフェは睦橋通り沿いにあり、割りとおしゃれな雰囲気だった。

訪れた時は自分とその友人だけがお客。

3時半ごろに店に到着し、話していたら閉店の5時までの時間があっという間に過ぎ去っていった。

内容については、テーマが子どもということで、彼女が世界中を旅した中で出会った子どもたちの写真が展示されていた。

しかし個人的には、南米滞在9ヶ月間の中で何人もの日本人バックパッカーと出会ってきたので、子どもというテーマを離れて作られていたアルバム2冊のなかの写真たちの方が入りやすかった。

素人による初めての写真展ということで改善の余地は大いにあるように思われたが、あったかい雰囲気が醸し出され、居心地は非常によかった。

(写真展をやっていたカフェにて。)

今回、写真展を開いていた彼女、実はお医者さんである。

インターンを終えた段階で、世界中を旅するという事業に出た。

現段階で2年目を終え、今度の5月にふたたび旅に出るそうである。(詳しくは、こちらを参照のこと)

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約9ヶ月という時間を南米ブラジルの地で過ごしてきた。

これから先、時間制限なしの世界一周などという一大事業は、おそらく僕は為し得ない。

ここでいう「世界一周」というのは、例えば一周の航空券を買った以外は、全て現地に行ってから情報収集し、そこで次の行き先を決めるようなスタイルである。

森有正は「こだわるだけの『体験』ではなく、現在の積極的行動につながる『経験』としなければならない」といった。

或いは、過去の事実(経験)を変えることは出来ず、その事実への見方を何通りにも持つようになることこそが成長だと断言する人もいる。

僕はというと、その9か月という時間をして、もっと心躍るような機会があるはずだ思わずにはいられない。


当時の経験を共有する人との再会というのは、「過去への新たな見方」を発見するきっかけであるに違いない。

だとすれば、そうした機会は多く持ちたいものである。

2011年2月26日土曜日

On the way back to SP/ 事の顛末#3

As written before, I decided to stay at Ushuaia for 13 days because of the lack of money.

After I enjoyed the stay there, I took a flight back to São Paulo via Buenos Aires from Ushuaia.

It happened at a moment I was waiting for the boarding gate open.

I was checking inside of my backpack.

Then, there was an envelope which had R$250 inside....

...

......

......... ! ! !

It was that I had totally forgot the presence of the envelope inside of my backpack after I got robbed in Buenos Aires.

With that money, approximately equal to AR$625, I could have traveled from Ushuaia to El Calafate to see the Glacier Perito Moreno and many fantastic sights in Patagonia.

At that moment, I CALMLY closed my baggage and decided to proceed what I had to do...

(Snowed mountains seen from the Tierra del Fuego National Park)

以前書いた記事の続き

帰りの飛行機に乗るべく、チェックインを済ませ、乗り口カウンター前で時間を潰していた時のこと。

リュックの中を整理していたら、なんとR$250(ブラジルの貨幣。約625アルゼンチンペソ。12,500円くらい。)が出てきたのだった。

それを発見した瞬間、いろんなことを頭が駆け巡った・・・(うん、それだけのお金があれば、足りなかった食費を補って余りあるよね。。。:その時の心のつぶやき)

が、この3週間の旅行をインターンシップでもらっていた1カ月分の給料でやりくりすると決めていたため、落ち込むというようなことはさほどなかった。

とはいえ、「埋蔵金」が発見された瞬間は声を出して笑ってしまった。あはは。

その後は、「埋蔵金」を見なかったことにして、ブエノス経由のサンパウロ行きの飛行機に乗り込んだのでありました。。。


2011年2月23日水曜日

School visit

Yesterday I visited my high school to make a presentation about my experience in Brazil which was given to four classes in the first grade.

I spent making the slides the whole day before yesterday.

The theme was "My Tangible Brazil" and each class runs 50 minutes.

One of my friends among the teachers invited me to do that.

When he proposed it to me, it was supposed to run 30 minutes and after that there would be a time for Q&A.

But since I talked too much, every time the limit in time pressed me to rush!

(This video is really funny because of the man showing up, but I was about to use this video to explain about the linguistic situation there in São Paulo - I didn't use it for the presentation.)


授業で使おうと思ったのは音声だけでしたけどね。。。(ちなみにサンパウロの地下鉄について書いた記事はこちら。)

というわけで、母校にて「ようこそ先輩、課外授業」をやってきた。

あの番組ほど本格的ではないが、つまりは高校1年生相手の政経の授業のコマを使って、自分の経験を元にした話をしたということである。

生計の授業枠内だったけれど、内容はどちらかというと地理だった。

突貫工事でやっつけた割には、なんとかなったという印象である。

1.自己紹介→2.ブラジルで何をしてきたか→3.ブラジルはどんなふうだったか

上記3本立て。

最後のほうのクラスでは、喋りに勢いがついてしまって、時間が足りなくなってしまった。

加えて、1時間目からぶっ続けで4時間やったせいか、或いはほぼ徹夜でスライドを作ったせいか、終えた後の充実感(=虚脱感?)は筆舌に尽くしがたいものがあった。

残念なのは、話してる最中の写真を撮ってもらいそびれたこと。

他のクラスの政経の担当の先生も知り合いの先生なので、ひょっとしたら「ようこそ先輩~」は次回があるのかもしれない。

久しぶりに訪れた母校の様子(生徒たちの様子、職員室の改装などなど)がわかって楽しかった。

(母校の事務室脇からの風景。なんだかわけわからないか笑)


オマケ:「Volare」 by Gipsy King

日本では某CMで有名。僕の中のブラジルのイメージにぴったりなので、授業のオープニングで使おうとしてました。(最初の1回しか再生する余裕なかったけど。)


もともとはイタリア語で書かれたバラードで、そこからこのバンドが一部をスペイン語に改変してアレンジしなおしたものとのこと。ブラジル(ポルトガル語)でもなんでもないんですね。

なお、有名なフレーズは「Volare oh, oh, Cantare oh....」というもの。「Cantare」を「がんばーれ」と空耳しがち。

「Voar, oh oh, Cantar oh...」(ポルトガル語)

「Fly, oh oh, Sing oh...」(英語)

2011年2月20日日曜日

My watch

Today I changed my watch's long and short bars an hour earlier.

It is because the summer time in the eastern area of Brazil ended on 20th, February.

So far, I didn't adjust my watch to the Japan Standard Time because it is a bit boring and I am missing something in Brazil.

But finally I did.

Which means the bars run in the same way as to Japan.

(Of course, I need to adjust the other factors the watch has!)

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ブラジルの夏時間に合わせていた腕時計の針を調整した。

サンパウロをはじめとするブラジル東海岸側地域のサマータイムが終わったからだ。

サマータイムの終焉をタイムリーに知らせてくれた、在サンパウロの友人に感謝。

1時間早めた時計の針は、日本の時刻と同じである。

それでもsaudadeは治まらない。

2011年2月18日金曜日

Decision at Ushuaia/ 事の顛末#2

I decided to keep travelling though I was robbed in Buenos Aires as written before.

During the journey, I was keeping my money in cash with me.

That's why I could make it although I lost my credit card.

And again, the problem, a limit in money, influenced on my travelling plan at Ushuaia....

From now on, I will write in Japanese.

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つまりは、金欠(手持ち現金の不足)のためにパタゴニア周遊計画を断念し、ウスアイアで13日間過ごすことに決めたということである。

なにしろ、サンパウロのアルゼンチン航空の事務所に乗り込んで航空券を買ったときに、ウスアイアIn+Outに決めてしまったのだから仕方がない。

パタゴニアを周遊するにしても、2月2日までにウスアイアに帰って、2月3日には飛行機に乗ってカラファテ・ブエノスアイレス経由で一気にサンパウロへ帰ることになっていたのである。

そもそも航空券の変更が利かないことに気付いたのは、ウスアイアに到着して4日後に、アルゼンチン航空の現地支店に直接確認した時であった。

仕方ないので、長距離バスで往復する計画に切り替え、カラファテ(El Calafate)に投宿して3泊ほどし、氷河を見に行くつもりで、情報収集をした。

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計算の結果、往復のバス代も宿代も国立公園入園料も現地での氷河観覧ツアー代も手元にあるのに、その間の食費がまるまる足りないことが判明。

氷河観覧ツアーの代わりに、現地の宿で同志を募ってレンタカーで行くとか、朝6時前に国立公園のゲートを通れば入園料とられないとか、現地宿(Fujiという日韓宿)でバイトするなど、安くすませる手段はあったが、どちらも現地に行かないと実現可能か判別できない。

カラファテ行きを断念し、ウスアイアに13日間に続けることに決めた。



1月21日にウスアイア入りし、上野山荘という日本人宿に投宿したのが23日。そこから2月3日まで居座り続けた。

パタゴニアまで来る日本人の旅人たちは流石に玄人ばかりだった上に、半分以上の人が互いに南米のほかの場所で既に知り合っていたという場合が多かった。

そんな理由で、まったく旅慣れしていない自分が馴染めるか最初は不安だったのだが、滞在1週間目を過ぎたあたりで大分馴染めたと思う。

バイクや自転車でアメリカ大陸を縦断してる人々、夫婦やカップルで世界一周、はたまたJICAの青年海外協力隊でパタゴニアやパラグアイに来ている人など、様々な人に出会った。

日本にいてはなかなか会えないような人たちと地球の裏側で出会えたのは、例えようもなく不思議な感覚だった。

最後に、日本に帰ってきてからの彼らを訪ねたいと思えたのは、13日間ウスアイアに居続けたからこそなのだと記しておきたい。

2011年2月15日火曜日

Accident in BsAs/ 事の顛末

In this article, I will write in Japanese about an accident that happened to me in Buenos Aires during my three-week long traveling in Argentina.

In summary, I was robbed of my purse in "subte A", the light blue subway but it didn't matter so much because fortunately the damage was not so big and I decided to keep going on besides that.

Only thing I have to say is "Please give my CPF card back!!" (^o^)/

Buenos Aires metro map

と、既にあらましを冒頭に書いているわけだが、改めて日本語で書いてみようと思う。

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詰まる所、ブエノスアイレスの地下鉄で財布をすられたということである。

幸いにして財布に入っていたものは:

お金が約200ペソ(≒4000円)、学生証、運転免許証、大学生協組合員証、サンパウロ版SUICA、会社支給の昼食用デビットカード、ブラジル納税者ID、クレジットカード、、、

だった。

基本的に旅の予算は全て現金で、しかも本体は宿のセーフティボックスに入れていたので、旅に支障をきたすには至らず、事件の時に行こうとしていた日本料理屋にも当日のうちに行ったのだった。

時系列を追って詳細を箇条書きすると以下の通り:

1.昼間タンゴ生誕の地と言われるボカ地区へストリートタンゴを見に繰り出す。

2.同じ日本人宿の2人と一緒。

3.ボカ地区から港地区へ足を延ばし、その後、一人は宿へ。

4.残りの二人でPlaza de Mayo駅で地下鉄に乗車、夕方6時過ぎで大混雑。

5.Pasco駅で降りようとしたのを阻まれ、突破。ホームに降り立つも財布の不在に気付き、列車に戻る。

6.ドアが閉まる直前、一人降車したのが見えたが、気にせず車内を捜索。見つからず。

7.一つ先の駅で乗り換えて戻ろうとするも、片側路線しか止まらないということを知らず勝手に混乱(地図要参照)。

8.駅に戻っても、とりあえず翌日にGarantia(保障)の部局に電話しろの一点張り。

9.宿に帰ってクレジットを止める。

10.仕切り直しのレストラン「日本橋」でのしゃぶしゃぶ。夏休み最後の日だとのことで、行ってよかった。サンパウロでもこの水準の肉を食したことがなかったので涙が出そうになった。

11.翌日地下鉄警察に行って被害届の紙を取得。スペ語とポル語と英語が錯綜した。警察もお気楽。

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原因として考えられるのは以下の通り。

1.サンパウロで8カ月何もなかったことで調子に乗っていた。

⇔通勤に地下鉄を使っていたため、地下鉄という乗り物に対して完全に気を許していたのは事実。実際にサンパウロで使っていた地下鉄緑線(Linha Verde)が市内で一番安全な列車だということを認識していれば、と思わなくもない。

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宿でもオーナー兼管理人さんが非常に心配してくださった。本当に感謝の念が尽きない。

すられた当初はさすがに唖然茫然だったが、そんなつまらないことで旅の計画(といってもさした計画ではなかったが)を潰されてはたまらないという思いが先行し、なんとか立ち直ることが出来た。

クレジットカードを止めて直ぐに、しゃぶしゃぶを食べに行ってくれる宿の同居人がいてくれたことも幸いした。

一つ目の事の顛末は、これでお終い。

2011年2月12日土曜日

Back home

Now I am back home in Japan.

Via Washington, USA, it was a 26-hours flight including 6 hours waiting at Washington.

After I arrived at Tokyo Narita International Airport, two of my friends came to welcome me.

It was good talking with them there.

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So, I am now back in Japan.

But it seems for me to take a while to get accustomed to this reality.

One thing is more practical.

Since I have been off school and lost my student ID and the driver's license, I have to register myself as a Japanese student, meaning I have to recover my IDs.

The other is more cultural.

So far I haven't gone out so much after I came back home because of the jet lag.

But in my recent experience in this country, the way back home from the airport, there were many things surprising me.

First, the language.

In Brazil, the signs are hardly written even in English.

But here in Japan, the signs are written in Japanese and English, and probably in Chinese and Korean.

In another way, I am feeling as if I could communicate with all the people in this country.

This feeling came from the gap in how willingly I am to speak with the other people.

For example, it was limited for me to talk in my mother tongue so far and I had to try to listen to them.

But here it is not true. I can communicate whenever I want.

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In the train, there were many people checking information with their cellular phone.

At that moment, an idea to talk with them came into my mind because it is common in Brazil and I can communicate with them in the mother tongue. But I didn't.

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Now my priority is to recover my status as a Japanese citizen!

2011年1月30日日曜日

Israeli

I met and shared a room in a hostel for 2 days with some Israeli people.

They are almost the same years old as me, 20 - 30 years old.

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In the first day at Ushuaia, I just talked a bit with them.

When I got up from bed, the people in the room were talking in a foreign language that I didn't know.

After I ate a dinner, we talked a little bit.

Then, I got to know the language was Hebrew and they were from Israel. Their pronunciation is like Arabic.

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Then, on the next day, I talked more with them.

And I decided to spend the next day with them.

This is what is so-called "旅は道連れ、世は情け (Tabi wa michizure, yo wa nasake)"- meaning: when you travel, it is good to enjoy friendship among travelers you meet.

The idea to go trekking with them came into my mind just because I felt.

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The third day comes.

I moved to another hostel but came back to the hostel I had been staying.

Then, we met up again and went trekking.

It was a reasonable trekking. So hard way and so balanced rest.

After the trekking, we came back to the town and made preparation for the dinner.

I thoroughly enjoyed the day with them.

Especially the conversation during the trekking was really interesting.

They finished the compulsory military service and now are traveling around the world.

Their country is in another world that I don't really know.

The experience with them was even a romantic incident for me.

Now I wish I visit them in the country in a near future.

(With my friends from Israel - At Glacier el Martial)

On the other hand,

It was a bit shocking because I didn't know about them almost at all.

I wondered if I could call them "Jewish".

I wondered if I might ask them about their background.

But my worry was denied with their positive attitudes.

I made my knowledge about the country slightly deeper with their help and the experience with them.

2011年1月29日土曜日

上野山荘#1

今回のアルゼンチン滞在は、ブエノスアイレスでもウスアイアでも標記の宿にお世話になった。

ちなみにウスアイアが本館、ブエノスアイレスが別館である。お間違えなく。


<別館@Buenos Aires>

レビューの要望が一部からあったので、その文脈から先に。

・日本人バックパッカー御用達の宿

・観光用ホテルの集積地にあるため治安的にはやや難あり(常に狙われてると思った方がいい)

・(補)サンパウロに比べて欧州の薫り漂うブエノスでは、アジア人の浮きっぷりが半端ない。

・(補)日本人ならなおさら。

・ただし交通の便は非常にいいのでブエノス観光にはぴったり

・ドミトリー生活を苦としないのであればオススメ(安いスーパーは徒歩10分圏)

・オーナー兼管理人のおばちゃん、いい人です。(お世話になりました。)

そんな感じでしょうか。詳細を知りたいという人がいれば、コメントなりで知らせてくれれば可能な限りで回答します。

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飛行機の出発が遅れたため、ブエノスアイレスについたのも予定より1時間ほど遅れた。

そんな中、空港から市内のバスターミナルへ移動、電話したのが別館の電話番号だった。

受話器をとったのは、ツンとした感じの女性の声だったが、その晩は仮設ベッドに泊まることになるがそれでもよければということで宿泊が決定。

空港(EZE)から見てセントロの入口にあるバスターミナルからタクシーに乗るのも癪なので、うろうろしながら何とか辿り着いた。ぎりぎり日が暮れるまえだったこともあり、無事到着。


建物の扉の前に立って見て、ふと何階だったかメモし忘れていたことに気がつく。

なんとなく3階を押したら、日本語の応答があったのでほっと一安心。なかに入れてもらえた。

入ってみると、そこは古めかしい、築30年以上は経っていそうなアパルトメントだった。

加えて螺旋階段に囲まれた空間にあるエレベーターはドア(内・外の2つ)が手動のタイプのものだった。

サンパウロにも手動ドアのエレベーターはあったが、2枚とも手動のものはなかった。

とはいえ、過去にこのタイプのエレベーターで昇降した覚えがあり、むしろ懐かしい感じがした。

3階へあがって、いざ宿の中へ。

アパルトメントの各部屋に2階建てベッドを置き、複数人泊まれるようにしてある。

アパルトメントといっても天井がかなり高いので、広々と感じられる。

台所、冷蔵庫、シャワー、洗濯機、テレビ、インターネット(Wi-Fi)と一通りのインフラがそろっており、かなり快適である。

先ほどの受話器の声は、この宿のオーナーのおばちゃんだった。(この方の経緯については長くなるので、ここでは割愛。)

(Av. 9 de Julioに行く途中に見かけた某社製品。本記事とは関係ありません。)

日本人宿ということで宿泊者は基本的に日本人だけ。

同じ南米ということでサンパウロと同じ心づもりで臨んだブエノスアイレスだったが、思いのほか差異の方が目について困惑してしまい、不安な面が多かった。

そんな時機での上野山荘別館という日本人宿だったので、心休まることこの上なかった。

だがそれにも増して、4泊しただけだが、オーナー兼管理人の伊都子さんにはいろいろよくしていただいた。感謝の念が尽きない。ありがとうございました。


2011年1月27日木曜日

Vacance

I decided to stay here in Ushuaia until I get back to São Paulo by plane.

It's mainly because I don't have much money enough to visit another point in Patagonia like El Calafate :P

But to my surprise, it is not so sad for me.

(A valley like "the Valley of the Wind")

Then, now I have realized that I am not a traveler who I mentioned before, but I just have my vacation after my work in this continent.

Anyway, I will enjoy the stay!


2011年1月26日水曜日

Japanese backpackers

I am not a usual Japanese backpacker who sets some things to see and plans to complete these targets, and whose purpose is just to travel around in order to see.

Since I moved to the apartment of Kagoshima do Brasil, I met many Japanese people who are so-called backpackers.

Here on the way of my travelling, again I have met this type of people.

My purpose to get out of my home country is not to travel around but to find something new for me.

With the latter reason, I have been doing the same things as they do.

But still I feel something different.

(Bay area at Boca in Buenos Aires)

Probably it is because I wanted to live by myself, produce something, and leave something for the people with whom I live together.

Everybody has his/her own reason to "travel".

From now on, I will and should stand alone...

2011年1月24日月曜日

Ushuaia - El Fin del Mundo

After staying in Buenos Aires for 5 days, I flied again to Ushuaia, called the End of the World.

There is a famous hostel among Japanese backpackers, 上野山荘本館.

But in the beginning I decided to stay in a usual hostel located in the central area of town.

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<2nd day>

I just went to ride on a train. It is just a touristic thing but I really wanted to see and it costed so much X(


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<3rd day>

I climbed a hill called Glacier el Martial with my room mates - I will write about them later.

It was really amazing, refreshing, and inspiring.



Here the situation is more touristic than I have experienced in this continent. Many languages and many attractions.

Now I have to decide how to make most of the rest of days...


Visit a friend at La Plata

In the third day in Buenos Aires, I visited one of my Brazilian friends taking an internship in La Plata, a capital city of the state of Buenos Aires.

It took 1.5 hrs by bus.

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La Plata is a capital city of the state.

The state government and the public university are located in.

The city was designed like a board of chess.

In the center of city, there are the Diet and the Catedral.




Before we met, there was a trouble: the ice cream cafe we were supposed to meet up has two shops in the city...

So, we met more than an hour later.

But finally we made it. At the moment when I made a phonecall to her, I was a bit moved.

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After she took me around in the city as in the photos, we went to a trainee's house.

We had a dinner of Lasagnha that one of the Brazilian trainees there made for us.

Then, I got the last bus of the day back to Buenos Aires.

I enjoyed the day with my friend there. It is good to visit friends in a place you don't know!

2011年1月22日土曜日

Tango @BsAs

In Buenos Aires, I have been to a bay area called La Boca and a bar called Bar Sur to see the show of Tango.

Boca is the oldest bay in Argentina, like Santos in Brazil. Historically it was a place for the immigrants to enter to the country. Then, Tango was born as a result of the cultural mixture.

Nowadays it is a more turistic area. From my point, it is a bit disappointing. But in terms of the history, it is still worth visiting.

In another day, I went to the bar with my friends. First, we went to the center area of city to buy a cheaper ticket. It costed A$70 for the entry - if you pay directly, it costs two times more.

Night comes. We walked to the bar located in the east area of the capital. The show started later than explained.

A band played in dark with some little lights. And then, a couple started dancing. There were two couples to dance in that night. But I like this first one.

Among the musics behind the dances, there was Libertango, a music recently played by Yo Yo Ma.

Frankly speaking, I had thought the music was composed by the cello performer. But it is not true. This amazing music was composed by a famous Argentine composer, Astor Piazzolla.

Anyway, they were dancing in a more sophisticated way. It was more 舞う than ダンスする.

The man led his woman, and she followed him expressing her love.

With the music, the message gets deeper and deeper.



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What I have to say is: You SHOULD visit the city to see the show of Tango!

2011年1月18日火曜日

あるぜんちん

着きました。

イグアスの滝を見に行ったときに5時間だけ入国したことがあるので、これで2回目のアルゼンチン。


サンパウロの空港から飛行機が出てくるのが遅れた以外は特に大きな問題もなく、日暮れ前に宿に到着できた。

空港の到着ゲートの外側、バス停の向こう側には広大なラプラタ側が流れていてびっくりした。

空港でバス(の代わりに来たタクシー)に乗りRetiroという駅へ。

その脇のバスターミナルから歩いて宿についた。

適当なポルトガル語だったが運転手のオジサンと少し通じ合うことが出来て嬉しかった。

非常に限られた範囲しか見れていないが、サンパウロの街中に比べて大分見通しが利くという印象。

明日は、ブエノスアイレスを散歩します。

2011年1月17日月曜日

インターンシップ終了

最後の1週間はあっという間に過ぎ去った。

インターンシップの終了というのは区切りに違いないが、涙涙の、という事態にはならなかった。

自分はどちらかというと涙もろい方なのだが、なぜそうならなかったのか理由はよくわからない。

金曜日の終了後に荷物を片づけ、土曜日の新年会兼忘年会に参加した。

直ぐに旅行に行くからかもしれないし、近々社長さん達に挨拶に伺うつもりだからかもしれない。

ひとまず感謝の気持ちでいっぱいである。

寄せ書きもありがとうございました。

(新年会兼忘年会でのお別れのスピーチの原稿はこちら

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土曜日は飲み過ぎで死んでいたし、日曜日は朝一番でポル語教室をこなしつつ、夜になってこちらで知り合った方の家に招かれてご馳走していただいた。

このブログ記事を更新する時間もなかなかない。

もう少しまともな振り返りをしたいところ。

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6時間後にはアルゼンチンのブエノスアイレスに向けて出発。

いつものことながら、これからパッキング頑張ります。

2011年1月16日日曜日

Despedida para a empresa

Caros amigos,

              Ontem, meu trabalho no escritório terminou. E hoje eu queria agradecer pelo aprendizado a todos os colegas da Kawasaki Motores do Brasil Ltda.

              Do dia 19 de maio do ano passado, eu tenho trabalhado com as informações dos clientes na área de CRM, Marketing. Na verdade, sou estudante numa faculdade de Direito em Tóquio, também por isso, tenho encontrado coisas novas todos os dias.

              Fico muito feliz com o trabalho na empresa porque quase consegui realizar as minhas metas no estágio aqui.
              Primeiramente, tive dois motivos quando me candidatei a esta empresa. Um foi que a empresa ficava num país fora da Ásia. Eu quis conhecer uma cultura mais diferente da minha. O outro foi a distância do topo da empresa. Eu soube que esta empresa é muito nova e achei que nessa situação eu pudesse fazer alguma coisa interessante. E até agora a minha expectativa tem se realizado.

              Então, esta empresa é muito nova e como tudo que está começando as condicões sejam difíceis e duras. Mas, no mesmo momento, acredito que tenha bastante potencial. Entendo que só o trabalho não é a vida. Por outro lado, é verdade que o trabalho é uma parte da vida. Enfim, se você se divertir com o seu trabalho mesmo, o potencial não vai ficar somente em potencial. Não há nada que a gente não possa realizar.

              Vou voltar ao Japão no dia 8 de fevereiro depois duma viagem para “o Fim do Mundo”. Talvez eu continue a usar o e-mail da empresa para terminar algumas tarefas infelizmente.

              Mas, de novo, eu queria agradecer. MUITO OBRIGADO!

15/01/2011
Kentaro Shibayama

2011年1月12日水曜日

Tá chegando

O fim do meu trabalho está chegando.

Vai terminar na sexta-feira que vem.

Agora estou no processo de transição do meu trabalho para uns colegas.

(A minha mesa no escritório)

Tenho trabalhado com as informações de clientes.

Nestes dias, é muito importante aproveitar umas informações.

No meu caso, a empresa precisa saber sobre os clientes e o mercado, e o presidente me deu uns trabalhos sobre clientes.

Fico feliz porque todos os dias tenho encontrado coisas novas.

Quero continuar andar na estrada que eu possa encontrar essas coisas.

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Tenho somente três dias, mas vou aproveitar tempo para fazer os últimos trabalhos.

2011年1月10日月曜日

サンパウロの夏は夕立が降る。

昼間はからっと晴れていても油断してはならない。


今晩、宿の中が大騒ぎになった。


ブラジル鹿児島県人会館には、共用の台所兼食堂に隣接して駐車場兼集会所がある。

ちょうど写真の真ん中にあるドアの向こう側である。

雨の降るたびに雨漏りがあったのだが、今晩の雨は尋常じゃなかった。

駐車場が水浸し、ワイパーで掃いても掃いても水浸しになった。

水をかき出すこと20分、ようやく雨が落ち着いてきたので、その場は解散になった。

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ブラジルでの洪水被害のニュースが日本でも流れたらしいが、バカにしてました。ごめんなさい。

2011年1月7日金曜日

06/01/2010

今日はひさしぶりにサンパウロで雨が降らない一日だった。

夕方になって曇り始めたため、湿度が急激に上がったものの、それでも7時を過ぎても顔を出していた夕日のおかげで空が明るく、気持ちがよかった。

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このインターンシップ(という機会を通じて得た経験全体)についての報告書を書いた。フォーマットはAIESEC in Japanの某イベントのためのものである。

書き上げたので、ひとまず社長さんに提出してコメントをお願いしている。まだ返ってきていない。

しかし今日の仕事の最中にその報告書が話題に上がった。

「怪しまれない程度に誉めちぎっといたわ(笑)」とのことだが、真相は乞うご期待。

そんな冗談を交えつつも、評価していただけているのは嬉しい。

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つまるところ、何らかの理由で自分の思い通りに出来ない中で、妥協しながら、でもどこまで走り続けられるか、ということなのだと思う。

「100点を取らなきゃいけないのは学校の中だけで、会社では60点でもなんでもとにかく難しいものに一通り形になっている回答を提示することの方が大事。」

成長してないなと我ながら思うが、今までの8ヶ月を悔いても今さら始まらないだろう。

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一方の仕事はと言うと、残り2週間を切る中で色々仕事を振ってもらっている。

しかしもともとだいぶ前からやっていたはずの仕事がここにきてうまくいっていなかったことに気付く。

キーとなって推進してくれる人間を勘違いしていたとか、言い訳の仕様はいくらでもあるが、それでは何も進まない。

ここにきて、ヤル気を見せてくれているその人にかけるしかあるまい。

ひとまず我が出国までに形になることを目指す。


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そういえば、終業後にポル語の勉強のためにスタバに寄ったのだったが、そこでAIESEC USPの人たちと遭遇。

近々研修生として国外に赴く人のためのちょっとした勉強サークルをやっていた。

もともとやりたかった勉強は何も出来なかったが、リスニングとスピーキングの訓練にはなった。

遭遇したことに正直ビックリ。でも時間の割にいろいろ話せたのがよかった。


2011年1月5日水曜日

Consegui!!

Hoje consegui comprar um bilhete de voo para Ushuaia, "a cidade do Fim do Mundo" na Argentina.

O preço do voo não está barato agora porque são férias geralmente.

Mas esse tempo é verdadeiro de mim, não pude fazer nada.

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Da tarde um dos colegas meus me levou para o escritório das Aerolíneas Argentinas na Al. Santos, a mesma rua em frente da minha empresa.

Entrei sozinho dentro do prédio.

Teve um escritório bonito no 14o andar.

E aí, uma fucionária apareceu.

Eu não me acostumei a reservar, mas consegui a esclarecer.

Quando acabarava do processo que reservar, uma frase que ela me deu: "Você fala bem português!".

Certamente eu fiquei alegre com o feito que consegui comprar o bilhete.

Mas a razão que sinto muito alegre é o feito que eu consegui fazer uma compra complicada SOZINHO falando português.

Terá menos de cinco aulas de português. Tempo passa mas vou tentar aproveitar!

2011年1月4日火曜日

仕事始め

我がインターン先企業は、1月3日から稼働している。なぜなら月曜日だからである。

社長さんも休暇から復帰され、色々仕事が降ってきた。

動いている実感があるのは楽しい。

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さて、我がインターンシップが終わった後、日本へ帰国するまでの2週間弱ほどの間、旅に出ようと思っている。

目指すは、南米最南端の地、ウシュアイア。地図で見るとサンパウロ(地図上A地点)からの距離は以下の通り(ウシュアイアはB地点)。


で、航空券をネットで調べていたのだが、なんとも高い。

他の南米諸国は知らないが、ブラジルは今現在、長期休暇の真っ最中。

しかも南半球の今の時期は夏なので、南極に程近いパタゴニア地方は観光シーズンを迎えているとのこと。

結論として、当初思い描いていた、往路のブエノスアイレスからウシュアイアまでを長距離バスで寄り道しながら行くというプランは捨て、往復ともにブエノスアイレス経由の航空券を購入することにした。

ブエノスアイレス近くにブラジルでできた友人がAIESECのインターン生として派遣されているので、4日間くらいストップオーバーしてみる予定。

ブラジルヘアル(R$)の現金払いなので、明日、アルゼンチン航空のサンパウロ事務所に直接乗り込みます。

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お正月をどう過ごしたかは、また次の機会に、ということで。

2011年1月1日土曜日

Feliz ano novo!

Meu 2011 começou na Av. Paulista.

Tinha muita gente!!

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Agora eu tenho menos de duas semanas na empresa.

Terá saudade muito.

Mas vou tentar fazer todo o que tenho!

E depois da volta ao Japão, tentarei realizar as inspirações que eu ganhei aqui no Brasil.

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Então, primeiramente queria dizer: "Akemashite omedetou gozaimasu - "um feliz ano novo" em japonês.