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2012年3月2日金曜日

前途洋洋たる

最初にKMBでお世話になった僕らが日本人インターン第一世代だとすると、第三世代にあたるインターン2人がもうすぐ現地入りする。

昨日は、そんな彼らともう一人第二世代のインターンも交えて、渋谷で飲んできた。

インターンシップを終えたばかりの彼がどんな6か月を過ごしてきたのか、あるいはこれから現地入りする二人がどんなことを考えているのかを通じて、僕の9か月を振り返るきっかけとなった。

結論から言えば、話の最中でex-traineeである我々が何度も繰り返したから、少なくとも観念としては伝わってるものと思われるが、結局「楽しんだもん勝ち」である。

「何やりたいの?」と聞くと「マーケティング」とか「ロジスティクスに少しでも関わりたい」とかって返答がありがちで、ブラジルに行く前の僕も、わけもわからず恰好をつけるために似たようなことを言っていた。

しかし、そんなことよりも先に日々の生活の中で自分が何に無上の喜びを感じるのか、追求することの方が大事だ。

こう断言する理由は、いくつかあるが、何より学生インターン生の特権としての自由について書きたい。


一つは、インターン先企業との組織と個人の関係における自由。受入開始の段階で半年とか1年という期限付きで入ってくるAIESECインターンは、他の正社員・現地インターンと比較して、お客様として遇される面がどうしても出てきてしまう。それは期限付きなのだから経営の観点からすれば当然だ。しかしそれは逆に言えば、組織内部をじっくり見ることが出来るにもかかわらず、比較的何をしようにも自由ということと捉えることも出来る。もちろん給料をもらう以上は、給料を出す側が期待するアウトプット(仕事)をしなければいけない。しかしその仕事を追求することはきっと楽しいことだと思うし、学生身分を保留して(休学して)臨んでいる以上、学生をしながらのインターンシップとは緊張感が違うはずである。僕は、現にそうだった。

もう一つは、上記とも関連するが、現地社会における行動範囲の自由。こんなことに自覚的になってしまうのは日本人だからなのかもしれないが、アウトサイダーとして、または現地化を目指す一個人として、国籍は違えど同じ世代を生きる学生として、おじさんの話を聞きたくてわくわくしている一日本人学生として、などなど様々な顔で活動できる。これも前提として、一定の給料をもらい、学生身分から解放されていて、かつ会社化組織からも一定の距離感があるからこそである。

この自由に対して、もはや”特権的”という言葉を使ってもいいと思う。なぜなら、留学やらボランティアやらとの比較においても、或いは学生生活を終えてからにおいても、極めて珍しいものと推測されるからだ。だって、安定的にお金もらってる時点で学生としては珍しいし、一方で組織からの自由という意味でキャリアを歩み始めたら、あんな贅沢な時間の使い方はなかなか出来ないはずだからだ。

これから休学して海外企業でインターンシップに臨む全ての人に、そして我がインターン先に臨む二人に次の言葉を送りたい。

"Vivre - ce n'est pas respirer, c'est agir.(生きること、それは呼吸することではなくて活動すること。J.J.Rousseau)"

前途洋洋たる現地での生活を、存分に楽しんできてほしいです。

2012年2月28日火曜日

感受性くらい

このほど、学部試験が終わった。現在、卒業可否の発表待ち。

確固として特にやりたいことがない人間にとっては、あれほどの圧迫感を伴う機会を数少ない訓練と捉えるのがよいのだと言い聞かせながら、机に向かっていた。(とはいえ、僕はギリギリにならないと尻に火がつかない性質であり、相対的にはのらくらした生活をしていたはず。)


高校を卒業し、大学に入学してから5年が経つ。

最近、この期間が自分にとってどういう意味をもつものなのか、振りかえることが多い。

自分が最も楽しんで生活していたのは、ブラジルでの一年弱を措いて他にない。これは間違いない。

地球の裏側で学んだのは、自分の感性に基づいて動くことの大切さ。

お世話になったインターン先の社長さんから学んだ部分が大きい。もちろん向こうで出会った全ての人からも。

そうでなければ、あのような就職活動はしなかっただろうし、その延長線上にあるご縁もなかっただろう。

少し角度を変えれば、それまでの自分を一定程度「ぶち壊す」ことが出来た。

残念ながら、こんな風に言えるのは、学生生活を通じてこれだけ。

楽しいと思えるものを追求して、もっといろんなことを試してみればよかった。

或いは、大学受験・学部決定など節目ごとに、自分がやりたいことについて自問自答しておくべきだった。

言っても仕方ないのは百も承知だが、これが率直なところである。

とはいえ、今の思いを胸に前に進むしかない。


また壁にぶつかったら、戻ってこよう。


「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」

2012年1月8日日曜日

2012年、始まりました。

最近、表向きには単位のための勉強をしていることになっており、特にここで記事を書くまでのこともないが、敢えて近況を記す。

学生団体の後輩の様子をみたり、自分の過去4年間を振り返ったり、旧交を温めたり。

そうそう、そういえば年賀状を天皇誕生日辺りにブラジルに送ったら、普段通り10日経って届いたとのこと。

その連絡が社長さんから直接メールで届いて、ビックリしつつ嬉しがっていたのだった。

ブラジル郵政公社は年末年始も通常通りの仕事をした。

自分の過去の振り返りという意味では、大学含め日本の経年的人材流動の構造やインターンシップとヴォランティアの違いについて考えることが多い。学生であるうちに、このブログで言語化したい。

あとは会社勤めが始まった後のことの妄想。南米に戻ったとして何をするか空想するのがもはや日課と化している。

元旦翌日に旅人コミュニティの新年会にお邪魔したが、その時友人が既に2012年末から2013年始の暦について語っていてビックリした。でも、あんまり他人のこと言えないということですね。

そんな最近。

(ブログ記事書いてる暇あるんだったら、1ページでも教科書を読み進めろって話ですね、はい。)

2011年9月27日火曜日

Caleidoscópio - Rioから見たSP

帰国当初から、近いうちにブラジルに戻りたいと思っている。

特に最近ブラジル関連のイベントに顔を出すに付け、その思いは強まっている。

どう実現するかが最大の問題であるが、ここではとりあえず行きたい理由を記す。

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最もひきつけられるのは、Rio de JaneiroのCarnavalに代表されるような光り輝くブラジルである。

これは、Carnavalの1ヶ月前に帰国したことによる、宿題としての側面が強い。必修科目。

最近ラテンビート映画祭で見た「Rio」というフルCGアニメ映画の影響も少なくない。

話自体は珍しくないものだったが、主な舞台となるRio de Janeiroという街が細部にわたって描きこまれていたこと、主役の鳥たちがブラジルらしいヴィヴィッドな色鮮やかさであること、話の展開がまさにRioのCarnavalに沿っていること、これら3点に感銘を受けた。

この映画の監督はブラジル出身で、長年この企画をあたためてきたというから相当力が入っていたのだろう。

一般的には、この映画を大衆娯楽アニメ映画と捉える向きが強いと思われるが、実際の街中に存在する雰囲気を詳細に表現しようとした点においてこそ評価されるべきだと感じた。

というのも、劇中で描写されているRioの町並みを通じて、僕のSão Pauloでの日常が想起されたからである。

その”Rioの町並み”は、歩道に敷き詰められているタイルだった。(写真の上から3段目右側。)

São Pauloでは、州の形をモチーフにしたイカした模様で統一されたタイルが敷き詰められている。

一方、劇中で主人公の鳥が飼い主と車に乗ってRioの街中で信号待ちをしているシーンで出てくるのが、下のイメージにもある模様なのである。そもそも僕はRio de Janeiroに行ったことがなく、Rio州の紋章などは知らないが、少なくともこの模様が"Rio"という言葉が意味する「川」の流れをモチーフとしたのは一目瞭然だ。

正直、São Pauloでの生活では、歩道の模様をそんなスタイリッシュにする前に、道路の補修とか信号機の耐久性向上とか他にやることがあるだろうと思うことが多かった。しかし、そうした機能物に作り手のこだわりというか美意識のようなものを盛り込んでくる、そしてそれを許す、あの雰囲気に対して、懐かしさを覚えずにはいられない。

サウダージとは、こういう感情のことを言うのだと思う。

この2つの州・都市の歩道の模様が、自分の中で瞬間的に繋がり、この映画を名画にした。

(画像引用先: Wikipedia)

2011年9月19日月曜日

地理情報の把握

しばらくはブラジルに行くことはないと思われるので、このブログは日本におけるブラジルの話題であったり、当時のことを思い出しての話題をつづることになる。今回は後者。

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行ったことのない場所へ行くとき、地図が重宝する。

日常のルーティンを抜け出て新しい街に繰り出す場合と、その領域の背景にある地理情報を知りたい場合。

このように地図利用の目的は大きく2つに分けられると思われるが、前者においてはGoogle Mapsなど技術革新によって、ネットに接続できれば好きなときに好きな場所で地図を確認することが出来るようになった。

問題は後者の、その領域における地理情報の把握における地図の役割である。

それは言うまでもなく大きいわけであるが、ブラジルに行く前の僕は、この点を履き違えて大きな失敗を犯した。

つまり、使っていた地図帳を持っていくことを怠ったのだ。何も考えてなかっただけとも言える。

いま僕はこの失態を悔いている。

なぜなら、ブラジルという千差万別の地域文化を持つ国において、地理条件の把握こそが、その実情把握のための要になるからだ。

実際、上記の地図の目的二分論における一つ目の理由からわかるとおり、単に生活していく分には、たとえそれが旅行であっても、最低限の需要は満たされる。

しかし、その地域がどのような地理条件にあって、したがってどのような気候や文化があるのか、そうしたことを把握し、自分の五感を通じて得られる刺激と結びつけるためには、どうしてもしっかりした地図帳が必要なのだ。

振り返ってみると、サンパウロの本屋さんで地図帳を探すなんてことはなかったし、結局当時は地理情報の把握を全く意識していなかったということなのだろうが、今では勿体ないことをしたとしか思えない。

帰国して自分の本棚で受験時代からお世話になっているA4版の『基本地図帳』(2006, 二宮書店)を見つけ、南米のページを開いたときの落胆といったら筆舌に尽くしがたいものがあった。

ブラジル近代史やブラジル日系移民史について少しばかり本を読んでいたので、なおさら勿体無かった。

統治にしろ商売にしろ、時間(歴史)と空間(地理)の把握が第一歩であると、誰かが言っていた。

反省!

2011年6月25日土曜日

駒場にて

先週の土曜日は駒場で自分のインターンシップについてプレゼンをする機会をもらった。

聴衆は、インターンを終えた人たちが数十人。

SFCの国領先生(AIESECの大先輩)の基調講演ののち、自分のプレゼン、そして先生司会による質疑応答という流れだった。

その後、インターンから帰ってきたばかりの2・3年生がいるテーブルごとに彼らの経験の共有・ディスカッション。

パワポの内容は、前回の大手町でのものに比べて大幅に変更。

ご来場いただいた諮問の方に前回との違いを指摘され、してやったりだった(これがいわゆる「ドヤ顔」)。

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振り返ること自体の意味については以前書いたので、今回のイベントの特質について。

前半の僕が前で話している時間までは、AIESECとしてはよくあるイベント内容だった。

特筆すべきは後半だ。

インターンシップから帰ってきたばかりの人がインターンシップ経験をもとに歩み始めてる人たちと交わすやりとり。

後者が何に面白みを感じるのか、彼らの情熱を引き出すことが出来れば、もっと面白いことが出来るはずだ。

要反省!

2011年5月28日土曜日

海外で働くということ

日本国内だけでなく海外で働かなければならない時代になっていると思う。

少なくとも海外から目を背けて仕事は出来ないご時世だという意見に異論はないはずだ。

加えて、僕は、どうせ海外から目を背けられないのであれば、そこにいる人々が何を考えているのか、どんな感性を持っているのか、知りたいと思う性質の人間である。

社会人になる前に自分で機会を捉える必要があると思いつつ、中高6年間は日本国内に留まった。

学生である間に、海外で働く経験を得たい。そう思って、この海外インターンシップという機会に飛び込んだ。

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今振り返ってみると、当初の目的が達成された面もある一方で、達成されなかった面もある。

当初の目的が達成されたといえるのは、現地での「生活」を通じて見えてきた彼らの一般的な価値観やら風土といったものである。

或いは、その風土へ適応するプロセスを自分の中で一通り実験してみた結果としての自信と言い換えられるかもしれない。

8ヶ月もの時間を投資して、多少は言葉を勉強し、さらには現地の人と机を並べていたのだから、こうしたことを達成事項としてあげるのは、当たり前といえば当たり前だといえるかもしれない。

達成できなかったのは、上記の理解を前提として成り立つ「協同」であると言える。

僕の中で「海外で働く」という時、その裏にこの「協同」という概念がぼんやりとくっついていたし、それはインターン先を決めるときも意識していた。

さしあたり「協同」とは、互いの価値観の相違を乗り越えて一つの目標に向かって歩みを共にすること、とでも言える。

文化の差異なんて相対的なものであって、別固体と比較する限り必ず存在するはずだが、国が違えばその差異の程度も想像だにしないものになるだろうという目論見である。

今回のインターンシップにおいて、残念ながら意図される「協同」を実現することは出来なかった。

言い換えれば、いわゆる日本企業的なロジックの枠組みから一歩踏み出して、彼女らと仕事をすることはなかったということだ。

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原因は複数あろうが、主には、1.(総論)インターン先が日系企業であったこと、2.(各論)設立後2年目で「現地化」の優先事項が他の活動にあったこと、(各論)自分がそこに甘んじたことにあると思う。

一応弁解しておくと、「協同」の文脈でそこにある状況に甘んじてしまっただけであって、仕事一般としては相応のアウトプットを出したつもりだし、そうした評価をいただいている。(この反省は、今改めて振り返ればこそのものであることをご留意されたい。)

1.インターン先が日系企業であったこと

総論としては、この一言に尽きる。

しかし、ここで書いておきたいのは、インターンシップを始める段階では全くその事実を気にしていなかったということだ。

というのも、職場における役割として、社長さんのアイディアを現場に落とし込み、ブラジル人たちと形にしていくもの、と聞いており、すなわち彼らブラジル人と共に成果を出す必要があると解釈していたからである。

しかし、現実は違った。少なくとも、上記解釈のようなことは求められていなかった。

これは、求人票に書いてある情報は、非常に限られたものでしかないということの端的な例と言えよう。

その意味で、若干余談だが、報酬に見合った成果を出すという点で、その組織の構成員の多数と同等の視点を得られるような「インターンシップ」という機会に身を投じることは、非常に意味があるし、あったと思う。

2.設立後2年目で「現地化」の優先事項が他の活動にあったこと

設立後2年目というのは、我がインターン先固有の事情であって、原則非常に恵まれた機会だったと感じている。

問題は、「ものづくり」を標榜する日系メーカーの、進出したばかりの海外拠点が、「協同」の追求に適していたかどうかということだ。結論は否。

二輪メーカーの生産・販売拠点の新規展開期ということで、当然現地化せざるを得ない部分もあるはずだ。

しかし、割り振られた業務領域とその周辺領域において「現地化」というキーワードを意識することは一度もなかった。

例えば、次期モデル開発のための市場調査(上記「周辺領域」に該当)は日本からの調査団が一貫して主導権を握っており、商品企画はあくまでも日本が担うという前提があった。


したがって、少なくとも現地化の推進が我が担当領域には求められておらず、現場における「協同」は実現の機運に欠けていたといえる。


3.自分に甘えてしまったこと

これも結局見方の問題。

当初は「ブラジル×裁量ある仕事」くらいにしか考えておらず、「協同」ということについて、そこまで言語化・意識化できていなかった。

実際、あちらで「協同」していたと言えなくもないないが、その相手はブラジル人ではなく、日本人の社長さんだった。

一方、こうして振り返ることで言語化できるようになった面があり、自分としては当初言語化できなかったことは致し方ないものと考えている。考えるより感じろ、だ。

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次の、或いは近い将来の舞台で、リベンジしてやろうってなもんだ。

2011年5月18日水曜日

大手町にて

去る日曜日、大手町のサンケイプラザにて(特活)アイセック・ジャパン主催のイベントで自分の経験について発表してきた。

(この動画、同じ代でAIESECやってたやつの力作です!)

既に一定の選考プロセスを通過した上での、ファイナリストとしてのプレゼンテーションだった。

Ustreamで探せば当日の様子が見れるらしいが、怖いのでまだ探してすらいない(笑

残念ながら大賞はもらえなかったものの、至って清清しい心地がしている。

話し方を見て「成長したね」と声をかけてもらったり、「惜しかったね」と声をかけてもらったり、聴衆の数だけ見方があるというのも実感した。

ちなみに今回のイベントへの当日来場者は200人超。

5m向こうはぼやけて見える僕にとって、ちょうどいい会場の広さだったかもしれない。

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自分の経験を人前で共有することは、一義的に自分の経験に対する視点を取り込む機会と捉えることが出来る。

特に今回は、普段AIESECに協力してくださっている(≒AIESECへの理解が深い)方々を招聘してのイベントだったため、出させてもらっただけでも感謝しなければならない。

個人的には、8ヶ月ものインターンシップを如何にしてまとめるべきかという点で中々しっくりくるものがなかったので、今回のイベントを通じて一歩進めた気がしている。

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プレゼンが終わった後の待ち時間、青年海外協力隊OBの方とお話しする機会があった。

「上司とのコミュニケーションが課題だったと言っていたけれど、結局あちらはこっちが考える『上司』をやってくれたの?」という質問。協力隊の方々にとっても悩みの種であるらしい。

答えは「No」である。

新しい切り口、深めるポイントを提示してもらったように思う。



多謝!

2011年4月5日火曜日

旧友訪問:阿佐ヶ谷

今日は教科書をもらいに阿佐ヶ谷に行った。

数年前のケニアでのインターンシップに筆者が立ち会った、その人である。

試しに丸の内線に乗りっぱなしで南阿佐ヶ谷まで行ったが、結局JRと定期券の組み合わせのほうが安いということが判明し、帰りは阿佐ヶ谷で電車に乗った。

阿佐ヶ谷のアーケード商店街にあるカフェでお互いに近況報告。

何の利害もなく、だからこそ腹を割って話せる中であり、(勝手に)同志のように感じている。

諸般の事情により未だ学生をしている彼女は、どちらかというとお金に無頓着な自分は稼ぐことよりもやりたいことをやりたいと思うようになった、と言っていた。

外務省の専門職員を目指しているそうだ。

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明石の白木屋を去る間際にかけられた一言が思い出された:”君には国のために働いてほしい”。

その言葉をかけてくださった方との対比で、自分は未だ金に対する執着が強くない。

しかし「自分の金でやっている」という実感こそが、権力としてのお金を持つものに備えられるべきと考えると、現段階で執着が強くないからといって見切りをつけるべきではなく、どんな道に進もうとも責任としての金への執着は身に付ける必要があるだろう。

とはいえ、彼女が提示してくれた切り口には、非常に共感できる部分があったのも確かである。

いずれにせよ「では、どの道に行くのか」という問いが再び浮かび上がってくるわけだが、結論を出すには未だ時間がかかりそうだ。


追記:丸の内線には「新宿」「中野」と名の付く駅がそれぞれ4つ、加えて「三丁目」駅が3つある、ということに気がついた。なお「本郷」だけは旧三丁目の名残とのこと。

2011年4月2日土曜日

震災の影響

サンパウロから来た日系ブラジル人と会う予定がなくなってしまった。

去る3月11日に起きた地震が原因だ。

4月から町田にある大学に語学研修プログラムに参加する予定で、それまでは茨城の親戚の家に泊まって学費稼ぎのアルバイトをしていたらしい。

Facebookで流れていた彼女の投稿を見ると、水が無いだとか電気がないだとか、復旧しただとか、もろに被災したことが伝わってきた。

彼女とはAIESECサンパウロ大学委員会を通じて知り合ったわけだが、向こうで直接あったことは無かったので地味に楽しみにしていたのだった。

東京経由でブラジルに帰るわけで、実は会うチャンスもあったのだが、コミュニケーションミスで流れてしまった。

うむ、残念。

ここで書いている以上のことがあったわけではないのだが、忘れぬために記す。

2011年3月29日火曜日

働く上で大切にしたいこと

いわゆる「就活」をしている。

その中で割と直球勝負の質問に出会ったので、その回答をここに記しておく。なぜなら「働く」ことに対する認識は、あのブラジルでの8ヶ月の経験を置いては語れないからだ。

したがって、この文章は8ヶ月の経験の結果ということが出来よう。

一方で「働く上で大切にしたいこと」なんて、変わりうるものだし、言語化されているものがどれだけ本当のことを示しているかには疑問の余地がある。

ひょっとしたら「あの時は若かった」と思うのかもしれない。

しかし、これが「いま」である。

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0.これから働く上で大切にしたいことを2つ挙げ、それぞれの理由を書きなさい。

1-1.これから働く上で大切にしたいこと

自分を高められる環境に身をおいて仕事をすること。

1-2.上記の理由

ある場所・状態に留まっているだけでは人間だめになってしまうと思うからだ。ここでいう「環境」とは、一緒に働くことで知的刺激を受けられる人がいる場所であり、また知的な営為(たとえば何かを習得・創造するための試行錯誤)に対して一定の許容を示してくれる場を想定している。もっと言えば、個人にかかわる意思決定を最大限尊重してくれる環境とも言える。もちろん腰をすえて取り組んだり、組織として動いたりしないと達成できないことがあるのは確かだ。しかし、それにしてもその取り組みを通じて自分に何の変化もないということであったら、それは単に「やらなければならない」という義務感や見栄で動いているだけで不健康であると考える。「働く」ということは少なからず人生の時間を仕事に費やすということであるが、どうせ働くなら健康に、わくわくしながら働きたい。

2-1.これから働く上で大切にしたいこと

何らかの形で人類に貢献すること

2-2.上記の理由

これについては特に確固たる理由があるわけではなく、漠然と、そうしなければならない、そうすることが自分に期待されていることであり本分である、と思ってきたからだとしか言えない。自分にとってどんな形で貢献することが最適なのかは未だわからない。しかし、今までお世話になってきた人たちからの期待、そうした人へ恩返しをしたいという気持ち、将来的に期待される友人の活躍、それに負けてられないという気持ち、これらを総合すると上記に至る。
ここで、何を為すのかが問題になるが、現状、答えを出すには自分は知らなさ過ぎると考えているため、現段階で身近にある切り口で歩き始めてみて、その中で何かが見えてくるのを待つしかないと考えている。

2011年3月22日火曜日

明石での引き継ぎ

17日から20日にかけて、往復共に夜行バスで1泊4日の関西訪問に出た。

主目的はインターン先企業の明石工場を訪ねて、お世話になった方々に挨拶をすることである。インターン先の社長さんの日本出張のタイミングにかぶせた。

(サンパウロに出張でいらした方々と次期インターン生と共に。)

明石で何をしたかを記すと以下のとおり。

12時:工場到着
12時過ぎ~13時過ぎ:回転寿司でブラジルの社長さんと営業のブラジル担当の方々と昼食
14時半~15時:工場付設の歴代モデルの展示場見学
15時半~16時過ぎ:サンパウロに出張でいらっしゃった方々へのご挨拶
16時半~18時:情報処理に関する引継ぎ
18時過ぎ:退社
19時半~22時過ぎ:居酒屋で飲み会

このうち、次期インターン生への引継ぎとして、工場見学と社長さんとの面会という内容があったが、出張でいらした方々への挨拶は、インターン先企業がどんな雰囲気なのかというのを伝えるのにいい機会であったものと思われる。

震災の影響で部品供給が止まり、工場見学が出来なかったのは残念だったが、彼らにとって、マナウスへ連れて行ってもらえることが決まったことが、不幸中の幸いだったはずである。

退社までの時間でそれ以外の部分では、引継ぎと称してエクセルを用いた情報処理トレーニングの続きをやってもらっていた。

基本的には、アウトプット(例の月次報告書)の基となるローデータと過去のアウトプットを渡して「アウトプットしてください」といっているだけなので、「指示を出して、あとはどれくらい出来るかを見る」厳しめの訓練である。

逆の視点で言うと、終わりの見えない試行錯誤が必要であり、かつ、方法論については極力ネット上で探せと言われているという過酷な状況である。

しかし、今回の会議室における時間を通じて次期インターン生2人は互いに情報交換するなどして進歩しているように見えたし、この訓練を通じて方法論をより深く体得できるはずなのでがんばってほしい。

2011年3月13日日曜日

Um amigo brasileiro em Tóquio

母からメールがあり、地元の集まりの飲み会にブラジル人留学生が来ているとのこと。

とりあえず行ってみた。

聞いたところ、サンパウロ州はCampinasにある州立大学のUniCampで博士課程に在籍している学生さんであるとのこと。日系移民のうちの初期の流れについて研究しており、歴史家としての道に進みたいという。

駒場にある日本学生支援機構の寮に住んでいるために、同じく駒場の剣道場に通っているとのこと。

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久しぶりのブラジル人との会話では、ポルトガル語がなかなか出てこなかった(もともと出てこないが)ことに若干残念な気持ちを抱きつつも、お互いに共通の話題がたくさんあり、思い出話に花が咲いた。

彼は、もうこの3月末で帰国してしまうのだが、こうした機会は大事にしていきたいと思った。

2011年3月9日水曜日

訪友:あきる野へ

去る土曜日、サンパウロで会った友人が写真展を開いているというのを聞きつけて、あきる野市小川まで行ってきた。

我が家からだと京王線~JR南武線~青梅線~五日市線という経路で東秋留(ひがしあきる)駅まで。

住民にとっては車だけが移動手段と言っても過言ではないだろう場所であり、駅の脇に地図があることを当てにしていったらひどい目に遭った。

(東秋留駅からカフェが面している睦橋通りに出るために通った道。)

写真展をやっているカフェは睦橋通り沿いにあり、割りとおしゃれな雰囲気だった。

訪れた時は自分とその友人だけがお客。

3時半ごろに店に到着し、話していたら閉店の5時までの時間があっという間に過ぎ去っていった。

内容については、テーマが子どもということで、彼女が世界中を旅した中で出会った子どもたちの写真が展示されていた。

しかし個人的には、南米滞在9ヶ月間の中で何人もの日本人バックパッカーと出会ってきたので、子どもというテーマを離れて作られていたアルバム2冊のなかの写真たちの方が入りやすかった。

素人による初めての写真展ということで改善の余地は大いにあるように思われたが、あったかい雰囲気が醸し出され、居心地は非常によかった。

(写真展をやっていたカフェにて。)

今回、写真展を開いていた彼女、実はお医者さんである。

インターンを終えた段階で、世界中を旅するという事業に出た。

現段階で2年目を終え、今度の5月にふたたび旅に出るそうである。(詳しくは、こちらを参照のこと)

>>>

約9ヶ月という時間を南米ブラジルの地で過ごしてきた。

これから先、時間制限なしの世界一周などという一大事業は、おそらく僕は為し得ない。

ここでいう「世界一周」というのは、例えば一周の航空券を買った以外は、全て現地に行ってから情報収集し、そこで次の行き先を決めるようなスタイルである。

森有正は「こだわるだけの『体験』ではなく、現在の積極的行動につながる『経験』としなければならない」といった。

或いは、過去の事実(経験)を変えることは出来ず、その事実への見方を何通りにも持つようになることこそが成長だと断言する人もいる。

僕はというと、その9か月という時間をして、もっと心躍るような機会があるはずだ思わずにはいられない。


当時の経験を共有する人との再会というのは、「過去への新たな見方」を発見するきっかけであるに違いない。

だとすれば、そうした機会は多く持ちたいものである。

2011年2月23日水曜日

School visit

Yesterday I visited my high school to make a presentation about my experience in Brazil which was given to four classes in the first grade.

I spent making the slides the whole day before yesterday.

The theme was "My Tangible Brazil" and each class runs 50 minutes.

One of my friends among the teachers invited me to do that.

When he proposed it to me, it was supposed to run 30 minutes and after that there would be a time for Q&A.

But since I talked too much, every time the limit in time pressed me to rush!

(This video is really funny because of the man showing up, but I was about to use this video to explain about the linguistic situation there in São Paulo - I didn't use it for the presentation.)


授業で使おうと思ったのは音声だけでしたけどね。。。(ちなみにサンパウロの地下鉄について書いた記事はこちら。)

というわけで、母校にて「ようこそ先輩、課外授業」をやってきた。

あの番組ほど本格的ではないが、つまりは高校1年生相手の政経の授業のコマを使って、自分の経験を元にした話をしたということである。

生計の授業枠内だったけれど、内容はどちらかというと地理だった。

突貫工事でやっつけた割には、なんとかなったという印象である。

1.自己紹介→2.ブラジルで何をしてきたか→3.ブラジルはどんなふうだったか

上記3本立て。

最後のほうのクラスでは、喋りに勢いがついてしまって、時間が足りなくなってしまった。

加えて、1時間目からぶっ続けで4時間やったせいか、或いはほぼ徹夜でスライドを作ったせいか、終えた後の充実感(=虚脱感?)は筆舌に尽くしがたいものがあった。

残念なのは、話してる最中の写真を撮ってもらいそびれたこと。

他のクラスの政経の担当の先生も知り合いの先生なので、ひょっとしたら「ようこそ先輩~」は次回があるのかもしれない。

久しぶりに訪れた母校の様子(生徒たちの様子、職員室の改装などなど)がわかって楽しかった。

(母校の事務室脇からの風景。なんだかわけわからないか笑)


オマケ:「Volare」 by Gipsy King

日本では某CMで有名。僕の中のブラジルのイメージにぴったりなので、授業のオープニングで使おうとしてました。(最初の1回しか再生する余裕なかったけど。)


もともとはイタリア語で書かれたバラードで、そこからこのバンドが一部をスペイン語に改変してアレンジしなおしたものとのこと。ブラジル(ポルトガル語)でもなんでもないんですね。

なお、有名なフレーズは「Volare oh, oh, Cantare oh....」というもの。「Cantare」を「がんばーれ」と空耳しがち。

「Voar, oh oh, Cantar oh...」(ポルトガル語)

「Fly, oh oh, Sing oh...」(英語)

2011年2月20日日曜日

My watch

Today I changed my watch's long and short bars an hour earlier.

It is because the summer time in the eastern area of Brazil ended on 20th, February.

So far, I didn't adjust my watch to the Japan Standard Time because it is a bit boring and I am missing something in Brazil.

But finally I did.

Which means the bars run in the same way as to Japan.

(Of course, I need to adjust the other factors the watch has!)

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ブラジルの夏時間に合わせていた腕時計の針を調整した。

サンパウロをはじめとするブラジル東海岸側地域のサマータイムが終わったからだ。

サマータイムの終焉をタイムリーに知らせてくれた、在サンパウロの友人に感謝。

1時間早めた時計の針は、日本の時刻と同じである。

それでもsaudadeは治まらない。

2011年2月12日土曜日

Back home

Now I am back home in Japan.

Via Washington, USA, it was a 26-hours flight including 6 hours waiting at Washington.

After I arrived at Tokyo Narita International Airport, two of my friends came to welcome me.

It was good talking with them there.

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So, I am now back in Japan.

But it seems for me to take a while to get accustomed to this reality.

One thing is more practical.

Since I have been off school and lost my student ID and the driver's license, I have to register myself as a Japanese student, meaning I have to recover my IDs.

The other is more cultural.

So far I haven't gone out so much after I came back home because of the jet lag.

But in my recent experience in this country, the way back home from the airport, there were many things surprising me.

First, the language.

In Brazil, the signs are hardly written even in English.

But here in Japan, the signs are written in Japanese and English, and probably in Chinese and Korean.

In another way, I am feeling as if I could communicate with all the people in this country.

This feeling came from the gap in how willingly I am to speak with the other people.

For example, it was limited for me to talk in my mother tongue so far and I had to try to listen to them.

But here it is not true. I can communicate whenever I want.

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In the train, there were many people checking information with their cellular phone.

At that moment, an idea to talk with them came into my mind because it is common in Brazil and I can communicate with them in the mother tongue. But I didn't.

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Now my priority is to recover my status as a Japanese citizen!